「碑」
 
男声合唱のためのレクイエム「碑」    作詩  薄田 純一郎  作曲  森脇 憲三
「碑」誕生の背景
旬刊音楽展望より
創立40周年記念演奏会のパンフレット曲目紹介より
創立50周年記念演奏会のパンフレット曲目紹介より
現在の慰霊碑

■ごあいさつ

広島メンネルコール
代表者 山本 定男

  われわれ広島メンネルコールは、昨年来創立15周年を記念し、広島を歌った合唱曲を創作したいものと、いろいろテーマを求め合っていました。折しも原爆で全滅した広島二中1年生322人の悲劇「碑」が、昨秋広島テレビにより製作放送されたのです。画面に写る幼い少年たちの顔、杉村春子さんの口から語られる傷ついた一人一人の少年たちの姿、今まで知られていなかった幼な子の受難に、われわれは烈しい憤りと感動に胸をしめつけられたのです。この感動の巨編は日本中に大きな反響を呼び起しました。そしてわれわれもまた求めるものを得たのです。
  この放送を機縁に出発した創作曲は、幸い広島テレビの全幅のご支援を得て、碑の企画制作に精魂をつくされた薄田純一郎氏に作詞をお願いすることができ、作曲もわれわれが常々ご指導いただいている森脇憲三先生の快諾を得ることができました。奇しくもお二人は広島二中のご出身、幼くして散った後輩に思いをはせ、心血を注いで創作に当たられたのです。創作曲は、その名もレクイエム「碑」、全9曲、演奏時間45分に及ぶ大作が完成しました。
  今宵は、お二人のご苦心にお答えすることは申すまでもなく、この歌が少年たちへの追悼であり、平和への祈願であることを願って、心をこめて歌います。時あたかも原爆25周年、意義ある年に生まれたこの歌を、われわれはいつまでも歌い続けてゆきたいと思います。
  最後に、この作品の完成に寄せられた広島テレビ放送をはじめ、関係各位のご厚情に対し、深くお礼申しあげ、ごあいさつとさせていただきます。

■恩師 弟達よ 今どこに

作曲 森脇 憲三

パンフレット

太田川の川土手の碑
苔のある碑
雨 風に洗われている碑
おとずれる人もまばらな碑

  非情のかぎりに苦しんだ恩師 弟達の碑
  地球の中で最も残酷な仕打ちに のたう
  ちまわり死んだ恩師 弟達の碑

×××××××
×××××××
×××××××

  恩師 弟達よ 今どこに
  私達は 君達の心を歌う
  今ここに 歌う 歌う

私達の声を聞いてくれ

大正5年7月8日生まれ、広島市出身
広島県立二中、広島師範を経て昭和16年東音(現芸大)卒
現在 福岡教育大学教授 全日本合唱コンクール審査員

■「碑」の作詞まで

薄田 純一郎

パンフレット

  テレビドラマとして「碑」の制作に取りかったのが昨年の正月であった。半年ががりの調査でできた草稿を、松山善三さんのもとに持ち込み、その構成でできあがった作品が、昨年10月に全国に放送され芸術祭優秀賞を受けた。 そしてことし6月にはポプラ社から単行本になって発行されて版を重ね、そしていま広島メンネルコールの人たちの手で合唱曲になった。 原爆の直後から思い続けてきたテーマが、こんなにいろいろな表現方法で発表できたことが嬉しい。と同時に、少年のまま死んでいった一年生たちの霊も鎮魂の曲に喜んで耳を傾けてくれるように思えるのである。
  原爆が落ちた3,4日後であったろうか、今の慰霊碑の立っているあたり、廃墟の本川土手に木の墓標が立ち、それが石となり、そしていまの慰霊碑ができた歳月をともに広島で過ごしてきた。 そして広島と原爆をしつように追い続ける広島テレビの制作スタッフに加わって長年のテーマを結晶させることができた。
  はじめてのこととて作詞にずいぶんと時間をとってしまい、めいわくをかけてしまった。 森脇教授や広島メンネルコールの人たちのはげましがなかったら、やりおおせることができなかったろう。 作詞に行きづまるとよく慰霊碑をたずねた。 一人ずつ名前の刻まれた碑の裏側に回り、また河中にのびた雁木(がんぎ)の跡を眺めて、遺族から送られてきた少年たちの顔を思い浮かべた。 生と死、そして不条理な死への怒りにかりたてられたのであった。
  いままでは一人一人の顔と、残していった言葉がわたしの記憶になってしまった。わたしの生きている限り脳裡から去ることはないだろう。
  公会堂の舞台から流れでる合唱が正面玄関前の土手にある碑に届くとき、ただ一つの曲“海行かば”を歌って死んでいった少年たちがどう聞いてくれるだろうか。 広島メンネルコールの諸兄のひたむきな情熱が、豊かな答えをだしてくれることを期待する。

「碑」企画者、広島テレビ放送報道制作部長

(1970年第11回定期演奏会のパンフレットより)
旬刊音楽展望

  アンコール! アンコール! 感動の涙をぬぐっていた白いハンカチが、拍手でうちふられた。その拍手にこたえて客席にふり向いた指揮者の山本定男さんは、客席に静かに語りかけた。
  「このホールの正面に、原爆で全滅した広島二中一年生の『碑』があります。扉を開いて、少年たちにこの歌をおきかせしたいと思いますが・・・・・」。
  大きく開かれた扉の真正面に、花でかざられた石碑が、照明の中で浮かびあがっていた。その石碑にむかってもう一度うたわれる終曲の一節。言葉にならない感動がホールいっぱいにひろがっていった。 十月二日、広島市公会堂でひらかれた同市のアマチュア男声合唱団、広島メンネルコールの第十一回定期演奏会のクライマックスだった。
  二十五年前、広島に投下された原爆で全滅した広島二中の一年生三百余人。その碑を建てるために少年たちの家族を追跡調査するもようをえがいたテレビ・ドキュメンタリー・ドラマ「碑」 。これに感動した前記の山本さんたちが、「広島にうまれ育った私たちの原爆への怒りをうたいたい」と作詩(薄田純一郎)、作曲(森脇憲三)を委嘱、合唱団創立十五周年記念にあたるこの日、発表初演したものだった。
  この話題が地元紙に大きく紹介されたために、この日の会場・市公会堂はおよそ千五百人の聴衆で満員。地元・広島テレビが演奏会のもようを中継録画するなど、合唱演奏会としてはかつてないほどのもりあがり。第一部、清水脩の「或る夜の心」、日本民謡のステージにつづいて、いよいよ注目のレクイエム「碑」が演奏された。
  「この歌はわれわれにしかうたえない。原爆を語れるのはわれわれでしかない。」というメンバーの意気ごみで、ステージは異様なほどの迫力。あるいは静かに語りかけ、あるいははげしく怒りをぶっつける演奏に、客席はシーンとして水を打ったよう。四十分をこえる長大なこの作品も、すこしもダレをみせずに、胸をしめつけるような感動のうちにおわった。
  客席に涙をハンカチでぬぐう人の姿も多く、いまさらのように平和への願いをかみしめているようだった。ある十三歳の中学生は「ぼくは戦争も原爆もしらないけれど、ぼくより年下の彼らが、いまぼくのすわっているここで死んだことを思うと、戦争のおそろしさに身がすくむようです」と語っていた。
  会がおわって人気のなくなった碑の前にすわっている老婦人。この歌の中でうたわれている少年、「坪木くん」の母親だった。坪木くんはお母さんにも会えず、「夢の中でお母さんに会うんだ」といって息をひきとったのだという。
  なおこの作品は、来年二月、福岡市でひらかれる森脇氏の作品発表会で、この日とおなじ山本さんの指揮、広島メンネルコールによってうたわれることになっているという。

(1970年「旬刊音楽展望(カワイ楽譜発行)」より)

  「死期がせまり、わたしも思わず、『お母ちゃんもいっしょにいくからね』と申しましたら、『あとからでいいよ』と申しました。その時は無我夢中でしたが、後から考えますと、なんとまあ、意味深い言葉でしょうか・・・・・・」
  これは、広島テレビから昭和44年に放送され、芸術祭優秀賞を受賞したドラマ『碑』からの一節です。このドラマは爆心地である、広島市内の本川土手で被爆し、五日後までに全滅した広島二中1年生、322人の悲劇を杉村春子の一人語りにより構成したものです。
  全国水準の男声合唱団を目指して昭和30年に創設された広島メンネルコールは、この当時、広島の合唱団ならではのオリジナル曲を持ちたいと、題材を探していました。このドラマを見て感動した山本定男たちは、早速これをモチーフとした創作を決意しました。
  作詩はドラマの制作に携わった薄田純一郎氏に、作曲は福岡教育大学教授の森脇憲三氏にお願いし、昭和45年10月に広島市公会堂で山本定男の指揮により「男声合唱のためのレクイエム『碑』」として初演発表しました。
  作品は九章からなり、被爆の瞬間から全滅までを、時に激しく、時に切々と訴えるように、また楽しかった学校生活や、最期の息のなかで、傷が直ったらお父さんと釣りに行こうと呟くシーンなどを織り混ぜて歌われます。 そして終章は「子らの声聞く人あれば/広島の心が聞こえる/広島を思う人あれば/広島は永遠にあり」と平和な未来を希求し、展望するように、明るく力強い、感動的な響きで歌い結びます。 前途有為な少年たちの無念の思いを、そして平和の尊さを忘れない、私たち一人一人の、意義ある生きかたによって、地上の永遠の平和が約束されるのだと、訴えているように思います。
  創立40周年、被爆50年のこの年、多くの歌う仲間たちが、それぞれの思いを胸に、ここに集まってくれました。その中の一人、被爆の語り部をされている67才の森本範雄さんは、「自分の盾となって閃光を浴び、目前でなくなった友の霊を慰めるために歌わさせて欲しい」と参加して下さいました。
  本日の会場は、くしくも25年まえに初演した、広島市公会堂の跡に建つ、広島国際会議場フェニックスホールです。そして、このホールのすぐ後ろ、50メートルの位置には、広島二中1年生322人の名を刻む碑が、今日も、あの本川の流れを見おろして建っています。 50年前の惨状が嘘のように、平和を祈念する公園として、見事に甦った、この地に建つ、このホールで、鎮魂と平和への熱い祈りを込めて歌い上げます。

(1995年広島メンネルコール創立40周年記念演奏会のパンフレット曲目紹介より)

男声合唱のためのレクイエム「碑」

  あの朝、県立広島二中(現観音高等学校)の一年生322人は空襲に備え、建物疎開作業のため、いまの広島平和公園の一角、本川べりに集合していた。爆心地から約500メートル、1学級から6学級まで2列に並んで点呼中、被爆、ある者は吹き飛ばされ土煙に消え、ある者は川に飛び込み力尽きて沈んだ。原爆の直撃で260余人即死、残る60人ほどの生徒が生きているうちに肉親に会えた。然し、お母さん、お父さんと叫びながら次々こと切れ、5日目の朝最後の一人が好きな軍歌をお父さんに歌ってもらいながら息を引き取り広島二中の一年生は全滅した。
  この悲劇の全容を、県立二中原爆記念碑保存会の協力で、古い名簿をたよりに追跡調査し、ようやく消息をつかんだ広島テレビは、昭和44年度芸術祭テレビ・ドラマ部門参加作品として全国放映した。同テレビのドラマ「碑」は、この運命の日、一年生322人と先生4人の被爆から死に至る過程を、故杉村春子の一人語りにより構成されたもので、芸術祭優秀賞を受賞している。
  当時、全国にも名を馳せるほどの水準に達していた広島メンネルコールは、広島をテーマにした創作曲を持ちたいという気運が盛り上がっていた。そんな時広島二中出身で代表者の山本定男はこのドラマを見て烈しく心をゆすぶられ、合唱指導をしてもらっていた広島二中の先輩、作曲家森脇憲三氏(故人)に相談、この話を広島テレビに持ち込んだところ、ドラマをプロデュースした薄田純一郎氏(故人)も奇しくも広島二中出身ということが判り、合唱曲作りの“二中コンビ”が出来上がった。早速、薄田氏は作詞に取り掛ったものの、生まれて初めてとあって半年掛かりとなったが、昭和45年10月、広島メンネルコールの創立15周年記念定期演奏会で、山本定男の指揮により、男声合唱のためのレクイエム「碑」として初演演奏しました。
  合唱曲「碑」はこのドラマの構成をかりて9章からなり、被爆の瞬間から全滅までの過程を時に激しく、時に切々とリアルな詩で、原爆の悲惨さを訴えている。とりわけ8章“全滅”で、死期がせまり、「私もいっしょに行くからね」という母に、「お母さんにあえたからいいよ―」との最後の言葉で息を引き取った山下明君。そのお母さんのうた、♪はげし日の真上にありて八月は腹の底より泣き叫びたき♪・・・・・と。この曲は鎮魂曲として宗数的なメロディーで表現しているがその半面、無邪気な少年の楽しかった学校生活を明るい調子で歌い上げるなど、変化に富んだ合唱曲になっている。そして“終章”では、原爆投下という事実をもたらした悲劇からの広島の復興、人間性の回復、平和な未来への祈りなどを込め、♪広島は永遠にあり♪と、力強く感動的な響きで曲を結んでいます。
  創立50周年のこの年、我がメンネルの歴史に足跡を残した多くの歌う仲間たちが再び、全国各地から『碑』への思いを新たに駆けつけてくれました。本日、総勢80名の素晴らしい仲間たちで、広島二中一年生322名の名が刻まれる慰霊碑を背に、35年前に初演した広島市公会堂跡地に建つ、因縁深いこの会場から、前途有意な少年たちの無念な思いへの鎮魂と、世界平和への熱い祈りを込めて歌い上げることにより、被爆60年を記念する広島からのメッセージとして全世界に届けられることを念願しています。

“レクイエム碑”初演の思い出

  “レクイエム碑”は広島メンネルコールの委嘱で作詞作曲され、昭和45年10月2日(金)広島市公会堂(当時)で発表初演した。
  初演というのはなにかと緊張すると思っていたが“レクイエム碑”は歌っていくうちに、詞曲の内容とこみ上げてくる思いが重なったまま歌ってしまう状態だった。アンコールは“第9終章”を客室のドアを開いで広島二中の碑”に向けて合唱した。“碑”に向いて鎮魂の気持ちを伝えたいとの思いからだった。
  初演には合唱のコンサートとしては初めて(おそらく)会場にTVカメラが入り後日放映された。知人が“テレビ見たよ、いい曲ができたね”といってくれた。又地元紙中国新聞も“レクイエム碑”の初演を写真入で報じた。記事の中に、「目頭をぬぐう婦人やうちふられるハンカチ・・・」とあり、合唱曲“レクイエム碑”の誕生を“意義深い事”と書いた。
  そしてその後私は初演の楽譜(森脇先生の書き下ろし)を大切に保管してきた。当時の先生の指示や思い出がいっぱい詰まっていて、私の合唱人生の宝といっていい。
  メンネル創立50周年記念の今回も練習の時から声のつまる事があったが、歌い手が涙しないよう、今日のステージは落ち着いて歌いたいと思っている。

(2005年広島メンネルコール創立50周年記念演奏会のパンフレット曲目紹介より)
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(撮影:広島メンネルコール 岩土 和孝)